1936年、今里(大阪市東成区大今里)に工場を併設した3階建ての新しい本社ビルを建設しました。しかし、その翌年から時代は戦時体制に突入、苦難の時代を迎えます。国内では戦時下での物資不足が深刻化し、原紙供給に統制がかけられるようになったため、コクヨは、インドネシアや中国の長春に会社を設立し、なんとか生産を続けようと奮闘しますが、1945年日本はポツダム宣言を受諾、終戦と同時にこれら海外の二つの会社と設備は放棄されました。戦後、焦土と化した日本にあって、コクヨは、大阪の本社、工場が奇跡的に無傷であったことから、急速に復興を果たします。また、この時期に米国の指導で実施された税制改革(シャウプ勧告)によって、帳簿の特需が発生、関連紙製品とともに爆発的に需要が増大し、戦前のこの分野における実績もあって、コクヨに注文が殺到しました。こうして、1952年頃には、戦前の最盛期の生産量にまで復活、再建の道筋を確かなものにしました。