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- 「洋式帳簿」
- 黒田国光堂の洋式帳簿(昭和初期)
戦前の洋式帳簿はその店や会社の格を象徴するアイテムだった。
背皮にはインド産の羊皮(ヤンピー)を、背文字には本金箔を使用。
小口に施す色鮮やかなマーブルも帳簿の品格を高めるのに一役買っていた。
洋式帳簿とは、その名の通り、洋式(複式)簿記のための帳簿。洋式簿記自体は、実は明治初期(明治6?7年)にはすでに福沢諭吉によってわが国に紹介され、福沢は和式簿記からの移行の必要性を説きますが、当初導入したのはもっぱら銀行業界のみで、多くの企業は、長く使い慣れた伝統の和式帳簿からなかなか離れられませんでした。とはいえ、世の中は西洋化が広く浸透しつつあり、善太郎は、洋式帳簿が早晩主流となるのは火を見るより明らかと、1913年(大正2年)洋式帳簿の製造に着手。製品化にあたって善太郎は、自ら洋式帳簿の付け方を学ぶとともに、高給の経理係を採用して自店の会計処理を複式簿記に変更。そこで得たノウハウを商品開発に活かしていったのです。また、和帳同様、用紙そのものの開発にも力を注ぎました。
当時帳簿紙は、すべてイギリスからの輸入品。しかし、時は第一次世界大戦。世界情勢は不安定で、用紙の安定供給はとても難しい状況が続いていました。善太郎は、消費者に不自由をさせないためにも、何としても帳簿紙の国産化を実現させようと決意し、日本の巨大企業、王子製紙株式会社に帳簿紙の製造を依頼します。当時のコクヨは従業員60名ほどの小さな町工場でしたが、その熱意が同社に届き、共同開発への挑戦がスタート、試行錯誤を続けながら、実に9年の歳月をかけてわが国初の国産帳簿紙が完成したのです。
- “国誉帳簿紙”と表示された王子製紙の用紙見本帳
洋式帳簿には「マーブル付け」という小口装飾が施されています。マーブル付けは洋式帳簿に鮮やかな美しさと格調を与えると同時に、汚れの防止、および精密な模様をつけることによって、ページの抜き取りによる帳簿の改ざんを防ぐ機能がありました。
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- 1~5種類の顔料を液面(布海苔)に落としていく。顔料には牛胆が混ぜてある。このため写真のように、顔料が液面上に拡散する。
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- 液面上に拡散した顔料を棒を使って8の字を描くようにして混ぜていく。
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- 混ぜ合わされた顔料にくしを使って各種のマーブル模様を付けていく。職人としての技術が大いに発揮される。
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- みょうばんを塗った小口面をマーブル原液に浸し模様をつけ、水洗いし、乾燥させる。